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    観月6

     





     笹原くんの心臓の響きが伝わってくる。
     彼の熱い吐息が耳たぶを微かにこそぐっている。
     ようやく戻りかけていた足の力があっけなく抜け落ちてしまう。
     頭の中は痺れ、胸のドキドキも止まらない。
     こんな場所なのに、トイレで興奮するなんて変なのに、それでも私の体は笹原くんの突然の抱擁に敏感に反応してしまう。胸の奥とあそこが同時に熱くなる。抵抗なんて少しもできなくて、私は彼に抱かれたままじっと突っ立っているしかない。何かを考えることすらできなくて、ただぼんやりとトイレの外の様子に耳を傾けることしかできない。
     女の子たちの声には聞き覚えがあった。
     ソプラノの綺麗な声が高木さん。ちょっとハスキーにかすれた声は橘さん。風邪気味なのか、ちょっとひび割れた声が遠野さん。
     三人全員が私たちと同じ二年C組のクラスメイトだ。
     彼女たちはファッション雑誌の発売日だとか、ポテトチップスの新しい食べ方だとか、とりとめもない会話をつづけているようだった。どうやら彼女たちはこの場所でしばらく掃除をさぼろうとしているらしい。
    「佐倉さん、ごめん、オレもう――」
     とつぜん笹原くんが小さな声で囁いた。押し殺して、震えるような声だった。
     聞き耳をたてていたせいかもしれない。彼の囁きはほとんど麻薬のようで、それだけで私の脳はドロドロに蕩けてしまう。彼の唇は私の耳元にぴたりと添わされていて、声の震えがはっきりと耳の中にまで伝わってくる。彼の声が私の耳を優しく愛撫している。
     私はまた知ってしまった。耳だってやっぱり凄い性感帯なんだ――。
     もうダメだと思った。彼の声が耳の奥を何度もたたき、目の前が真っ白になってわけがわからなくなった。
     彼の腕は私の上半身をしっかりと捕えている。しなやかで力強い筋肉が私の肩と背中をささえ、ウェストには彼の手のひらの熱が伝わってくる。
     彼のことを直接感じ、胸がいっぱいになった私は、けれど何がなんだか理解することさえできなくて、ただ彼の名を呼ぶことしかできない。
    「さ、笹原くん」
    「ごめん。我慢できない」
     彼の乱れた吐息が首筋から耳元へと吹きかかる。それだけで私の中心を深い快感の波が駆け抜ける。
     狭い個室のうえに便器のせいで足場も悪く、私は一歩たりとも動くことができなかった。
     動くことのできない私の腰に、笹原くんの腰が押し付けられてくる。
     彼の手が私の腰からお尻のほうへと徐々に移動していく。それにつれて彼の手には強く引き寄せるような力がかかり、私たち二人の腰はしっかりと密着させられた。
     私の頭はあいかわらず混乱しきった状態で、けれど彼が何を我慢できないのかだけはよくわかった。
     それは驚くほどに固く、しかも時おりビクビクと強く脈動しているのだった。
     下腹部が熱かった。
     その熱はすぐさま股間にまで伝わって、エッチな液がまたトロリと体の奥から溢れるようだった。
     私の下腹部に彼の性器が押し付けられていた。
     私と彼とのあいだにはお互いの制服が挟まれていたけれど、彼が強く私のことを抱き寄せるから、彼のペニスの先端が私のおへそのあたりにめりこんでくるのがとてもよくわかった。
    「佐倉さん……」
     熱っぽい声で囁く彼の唇が、私の首筋を微かに撫でている。
     ブラウスの襟が乱れ、あらわになった首筋の白いリボンをたどるように彼の唇は進む。
    「ごめん……ホントにオレ、我慢できそうに……」
    「あ、あの……わ、私……」
     まるで彼の逡巡を伝えるかのように彼の唇の動きは不確かで、その迷うような動きがどうしてだか私の心と体までもを迷わせる。
     私たちはまだただのクラスメイトで恋人でもなんでもないのに。ここは学校なのに。今は大掃除の途中で、放課後でもなんでもないのに。それ以前にまだ中学生でしかない私たちがこんなことを本当にするなんて、たぶんとてもいけないことなのに。
     でも……。
     私の心と体だってもうこの状況に耐え切れそうにない。
     好きな人に抱きしめられて、こんなに強く求められて、それでどうすれば拒否なんてできるのだろう。そんなの絶対にできるわけがない。
    「笹原くん、その……私……」
     けれど拒否できないはずの私の両手は、なぜか独りでに動いて彼の手を押さえつけ、戒めを解こうとする。
    「佐倉さん、お願い」
     彼が強い声で囁き、私の体はさらにきつく抱きしめられる。
     私の手はそんな彼のことを押しのけようとする。私の腰は自然によじれ、彼の性器から逃れようとする。全身が彼の囁きと愛撫でドロドロになっていて、気持ちよくてしかたがないのに逃げようともがく。
     それは自分でも説明できない行動だった。
     まるで反射神経によって全身が支配されたみたいに、両手は笹原くんの動きに抵抗する。
    「ごめん……オレ……」
     とつぜん笹原くんの両腕から力が抜け落ちた。押し付けられていたお互いの腰は離れ、とつぜん開放された私の体はそのまま個室の床に崩れ落ちそうになった。
    「あ……んっ……」
     半分ほど崩れた膝になんとか力をこめ、私は個室の壁によりかかった。
     途切れ途切れの呼吸を整え、笹原くんの顔を見上げた。
    「笹原……くん?」
     薄暗い個室の壁にもたれた彼は沈痛な表情で唇を噛んでいた。私の胸に冷たい衝撃が走った。首筋に食い込んだ白いリボンがなんだかとても虚しく感じられた。
     個室の中ではあいかわらず三人の女子がおしゃべりに興じている。かすれるような声で囁きあい、もぞもぞと動くだけの私たちにはまったく気づいていないようだった。
     私の胸に激しい後悔の波が押し寄せる。
    「ゴメン……オレ、どうにかしてた」
     彼は暗くうつむいたまま、とても静かにそう言った。
    「佐倉さんを見てたら我慢できなくて……。その……佐倉さんがそんなに嫌がるとは思わなかったし」
     とつぜんの衝撃。彼の言葉をうけた私の胸は張り裂けそうになった。
     そうじゃない。
     そんなの全然違う。
     私はべつに彼の行為を嫌がったわけじゃなくて。ただ体が勝手に動いただけで。それはたぶん嫌だからじゃなくて、ただ男の子に抱きしめられることに慣れていないから恐かっただけで。
     そう。単に慣れないことをされたから驚いただけなのだ。
     結論は出ても喉はひりひりと痛み、けれど私の想いはいっこうに言葉にならなかった。
     何かを言おうとしても体が恐怖にすくみ、喉は詰まったままだった。
     私は彼のことが好きなのに。
     彼に抱きしめられるのだって大好きなのに。
     心と体が矛盾している。やっぱり私は自分の思ったことを言葉にして伝えるのがとても下手なのだ。
     狭い個室の中に沈黙が漂っていた。
     私の体はあいかわらず中途半端に火照ったままで、彼に抱きしめられた嬉しさと、そんな彼を落胆させてしまった後悔と、すべてが中途半端に混ざり合って、なんだか息詰まるような沈黙だった。
     けれど、いつまでもそうしているわけにはいかなかった。
     私は彼のことが好きで、彼もたぶん私のことを好きでいてくれて、そんな二人がこんなに気まずい関係になるなんて絶対に嫌だ。
     それもぜんぶ私のせいで、私がうまく気持ちを伝えられないせいでなんて絶対に嫌だ。
    「あの、ね……笹原くん」
     私は勇気を振り絞って小さく声を出した。
    「ん?」
     彼が暗い瞳で私のことを見る。
     私は彼の前に両手を差し出した。そして制服の袖から伸びている白いリボンを自分の手首にくるくると巻きつけた。
    「佐倉さん?」
     笹原くんが不思議そうな表情で私のことを見つめる。
     私はこの中途半端な雰囲気を打ち破るべく、がんばって笑顔をつくって答えた。
    「ホラ、こうして私の両手を結んでおけば大丈夫だから。そうすれば私、笹原くんに抵抗できないと思うから」
     そう言った私の頭の中は、彼にそうされる瞬間を想像し、そのせいでまたあっけなくドロドロに蕩けてしまっていたのだ。


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    小説 ホワイトリボン | コメント(0) | トラックバック(0)2005/01/10(月)07:43

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